映画と晩酌

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野火【戦争映画】感想+ネタバレ有り

塚本晋也が描く戦争映画なんてホラー映画に決まっている。映画の出来が良かれ悪かれ、私には耐えられない代物だろう。そんなことを考えて避け続けてきた本作を昨今の戦争事情に何かと思うことがあり鑑賞しました。

単刀直入に言えば「野火」はこれまでに見た戦争映画を凌駕した名作です。

 

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あらすじ

第2次世界大戦末期のフィリピン・レイテ島。日本軍の敗戦が色濃くなった中、田村一等兵塚本晋也)は結核を患い、部隊を追い出されて野戦病院行きを余儀なくされる。しかし負傷兵だらけで食料も困窮している最中、少ない食料しか持ち合わせていない田村は追い出され、再び戻った部隊からも入隊を拒否される。そして原野を彷徨うことになる。空腹と孤独、そして容赦なく照りつける太陽の熱さと戦いながら、田村が見たものとは・・・

 

田村一等兵という男

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田村は肺病を理由に除隊命令を受け、5日分の芋を渡されて野戦病院行きを命じられますが、その足で向かった病院では芋を受け取ったその日に退院を告げられます。

田村は再び部隊に戻ってきますが帰ってくるなと言われてしまい、地獄のような駐屯地と地獄のような病院を行き来する羽目になります。

 

どうしてこの男はここまでたらい回しにされるのか?

もちろん、表立った理由は肺病です。防空壕もまともに掘れないことから部隊を追い出され、肺炎ごときの人間が来るところではないと病院からは追い返される。戻ってきた田村に対して更に上官が病院に戻ること、或いは自決を促すのには、肺病の他に田村の人となりに隠れた原因がある気がしてなりません。

永松が「タバコと芋を交換してくれ」と言ってくる場面で田村は彼を憐れんで芋を差し出します。さらに病院で芋泥棒を謀って捕まった永松を助けるために田村は芋を差し出す。差し出された病院側の男は、

「なんなんだ貴様は、なんなんだ貴様は!」

と驚き、その声には怯えすらも垣間見えます。田村のこの行動は戦争中でなければ珍しい話ではありません。だけどここは太平洋戦争末期のフィリピンなんです。

 

田村一等兵という男は正常であり異常である。

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地獄絵図のような戦場で正常でいられることが異常であり不気味なのではないでしょうか。田村はいつも礼儀が正しく、信念を抱いており、現状を客観的に見ることができる冷静さを持っています。それは異端な存在です。それでいてその人間らしさを懐かしんでしまう。

異端な存在を遠ざけたい怯えが除隊の隠れた理由であり、懐かしさゆえの「目のつかないところで死んでくれ」という上官の願いだったのかもしれません。

 

神様に選ばれた男?物書きとしての田村 

さて、この田村一等兵という男。死亡フラグは何度も立つものの全然死にません。というか死なせてくれない。

 

  • 野戦病院での受け入れを拒否されたら自戒せよ、と言われたものの空爆で病院がなくなる。
  • 教会で女を撃ち殺したことで自戒するかと思ったものの死体の傍らに塩を見つける。
  • 米軍の猛烈な一斉掃射では身動きが取れずにジッとしていることで生き延びる。
  • 白旗を挙げて降参しようとするが動きが鈍いせいで先越されるが、その男が撃たれて死ぬ。
  • 「猿」を追う永松に撃たれそうになるものの恩返しのつもりか見逃してもらえる。

 

上記から特に注目したのが教会でのシーン。教会という神聖な場所を血で汚したその手で田村は塩を入手します。

それは偶然ではなく必然であり、神様が田村に物書きとして戦争という惨劇を後世に語り継ぐことを命じたシーンでもあるのではないでしょうか。

 

どん底を共に歩んだ者たち

地獄の果ての親殺し【安田と永松】

学生時代に子を孕ませて捨てた安田(リリー・フランキー)と、妾の子で寂しがりやの永松(森優作)は二人で行動しています。

この二人の関係性はロクデナシの父親とその息子そのもの。永松の未熟さゆえの依存性で二人の関係は成り立っています。棄てられたくないとすがる子供とそれを理解した上で利用する親。

永松がタバコと引き換えに手に入れた芋をためらうことなく安田に半分渡すシーンを見て「なんでそんな奴に渡すんだ!」とフラストレーションを抱きますが、冷静に考えてみると食料を分け合う精神は人として高貴なものですよね。映画を見ている側まで感覚が麻痺していることにハッとさせられます。

「猿」を殺すようになった永松は間違った方向ではあるが成熟していき、最終的には安田を殺して喰らい付きます。

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結果的に永松は田村に殺されて喰われたことでしょう。

「お前もな、絶対俺を食うはずだ」

それをすべて予想しているかのような涙ながらの訴えに感動しました。寝顔と同様の純粋な涙。本来の彼は二十歳にも満たないただの気弱な青年に過ぎないのです。

 

「俺が死んだらここ食べてもいいよ」【伍長】

上記は言わずと知れた伍長の名台詞ですね!「まごまごしてっと喰っちまうぞ」も迫力があってよかった。

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伍長には銃弾が当たりません。銃弾が避けていくので彼の傍にいれば安心、というジンクスも束の間。米軍の一斉掃射で助けて傍に抱えた同胞は無残に撃たれ死んでしまいます。

伍長は生き残るもののショックで狂ってしまいます。それで冒頭のセリフを田村に言うのです。

田村は恐ろしくなって逃げますが、頭の中は人を食べる誘惑に囚われます。意を決して伍長の元に戻る田村。視線は真っ先に伍長の脇腹!そして蛆シャワー!ここから物語が大きく展開していく名シーンです。

 

人は惨劇を繰り返すのか。

終戦後、敵国の野戦病院で目を覚ました田村一等兵

夜食を食べる姿を妻に覗き見されるシーンでは心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状が見られます。ナタで人間を切り刻んでいるような、または祈っているかのようにも見える異常な動きを繰り返す田村を息を呑んで見つめる妻。あの戦場を体験していない人には全く理解できない行為です。

やがて、外では戦争を彷彿させる野火が燃え盛ります。その炎を見つめる田村、といったシーンでこの映画の幕は閉じられます。このシーンは戦争がいつ始まってもおかしくはない、というメッセージが込められているように思います。

あの惨劇を語り継ぐ者として田村は神様に選ばれたのでしょう。そして、それを小説や映画といったツールを通して現実で紡いでいくことが戦争の災いを防ぐ方法として私たちにも挙げられているのではないでしょうか。

 

 

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